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山のこと

 エムカワ&いぬねこの登山記 北アルプス紀行はこちら


野営

中学の頃、ボーイスカウトに入っていた。

登山というよりキャンプが主だった。
火の炊き方はここで覚えたようなものだ。


ボーイスカウト、テント設営やカマド作りは自分たちでするのだが、移動は雨具や弁当、地図など最低限の必需品を携行するだけの軽装となる。

キャンプ用の食料や資材は車が野営地へ運んでくれる。

人力で運ぶ必要のないテントは、風で簡単に飛ばないよう丈夫が取り柄の重くて、そして組み立てに時間のかかる、とっても設営しづらいつくりのものだった。

鉄フレームのデカくて重たいテントを張って思ったこと。

「ヒマラヤに行く人はこれを担ぎ、燃料用の薪やら鍋釜を担いで行くんだな、たいしたもんだ」

しかし、ヒマラヤでこんな重たくて使いにくいテント背負って登る人なんて誰もいないのだった。
薪だって運ばない。フライパンや中華鍋だって持っていかないだろう。

富士登山

富士山は何回登っただろう。頂上までは3、4回行っただろうか。小学校高学年・中学の頃には清掃登山で毎年登ったと思う。


高校・大学と、夏にはキャンプをやった。
メインイベントは富士登山だった。

富士登山で注意することを二、三挙げよう。

富士山は標高が高い。気圧に適応できないと高山病にかかる。
高山病は体力の問題ではなく、生理的なことなのだ。

なので、五合目駐車場に着いても、あわてて登り出すのはよくない。
しばらくは、五合目にいて体を慣らすこと。

夜更かしもよくない。二日酔いも。


天気のよい時は、Tシャツ・サンダル履きで登れる。
しかし、山の天気は変わりやすい。いったん雨が降れば、頂上を遙か手前にして下山しなければ遭難してしまう。

条件のよい日に、お気軽な服装で登山しているファミリーとすれ違ったりしたが、あまりに無謀だろう。

山の中で

山で思い知らさせるのは、自分の身の丈である。

自分の命は自分で守る。それしかないのだ。

疲れたからといって、タクシーが来てくれるわけでもない。
水やおにぎりを運んできてくれるわけでもない。

登ってから帰り着くまで、すべて自分の器でしか動けない。

自然はごまかせない。煽てようと貶そうと、媚び諂おうと。
人間はあまりにちっぽけな存在で、ただあるがままに振る舞っているだけの自然に、謙虚にならざるを得ないのだ。

開発という美名

人は都市文明にあこがれ、そこにある生き方を追従しようとする。
利便性と豊かさを履き違えて、己の棲む場所を都会化しようとする。

土の見えない人工の街は、人間が自然の一部であることを忘れさせる。
あたかも、人が人の力だけで生きていけると錯覚させる。
自然すら、人の自由になると思いこんでしまう。

隣に誰が住んでいて、なにをしているのか知らなくても生きていける。
己が力で生きていると、思い込むにはあまりに容易だ。

己の力で生きている、それは間違った考えではない。
しかし、ある一面しか見ていないのも事実だ。


都市そのものは自立などしていない。

都会が都会として機能し成り立っていくためには、それを支えるだけの広大な農地、莫大量の燃料、資源が不可欠である。
都市文明は地球上の鉱物資源をかき集めて成り立っている。大量の化石燃料を毎日だくだくと飲み込んでいる。食料も同様、世界中から金の力にまかせて…。
金さえあれば何でもできると思いこんでいる。


都市に住む者は田舎に憧れる。人の手でつくることのできないものがそこにあるから。
田舎には美しい自然があるからこそ、ひとは魅せられ憩いを求めやって来る。

より多くのひとを集めるため、道路を広げ、建物を建てる。人を引きつける根元である自然を犠牲にして。

多くの人が集まるような環境を造ったとき、しかし、すでに自然は残っていないのだ。
あるがままの自然が、人造の自然と化した時そこに本物の美はなくなっている。


豊かな自然の恵みあってこその都会である。

機械によって水を浄化し、空気を浄化することが当たり前になっている都会。
都会は、自然のサイクルから隔たった、それでいて、地球という生命に寄生する奇形なのかもしれない。





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